住まいのヒストリー 三井の住まいづくりのこだわりブログ。コメントお待ちしています。 「みんすまアンケート」 都心で一人暮らしをするとしたら
年代別:
1970年代
お手本は、東京・杉並の「浜田山住宅」
お手本は、東京・杉並の「浜田山住宅」
三井不動産の戸建住宅事業に本格化をもたらすことになったのは、1970年に着工した埼玉県上尾市の「サニータウン上尾」です。
1970年といえば、誰もが忘れもしない、あの大阪万博が開催された年。大阪・吹田市の千里丘陵で「人類の進歩と調和」をテーマに、77カ国が参加して開催されました。入場者数は6421万人。シンボルタワーとなった岡本太郎作「太陽の塔」は、今なおその地にそびえ立っています。その年の流行語は「モーレツからビューティフルへ」。高度経済成長期の真っただ中で、まさにモーレツに突進しつつも、どこか、心にやすらぎを求めたい、ホッとしたいという人々の気持ちがひそんでいたといえるでしょう。
さて、「サニータウン上尾」は、その事業方式がユニークだということで、社会的な注目を集めました。「上尾方式」と呼ばれた、その主な内容は以下のようなものです。
「ハコ」のような不思議なカタチの戸建住宅
「ハコ」のような不思議なカタチの戸建住宅
当時、拡大傾向にあった住宅市場においては、規格住宅型と高級志向型の二極化がありました。また、感度のいい30歳台の若年層が積極的に購入に動き始めていました。
そこで第1に採用したのは直前に販売されて話題になった「浜田山住宅」での経験を生かした方式です。それは、東京・杉並区浜田山の全19棟の戸建住宅で、設計を建築家の清家清氏ら10人の専門家に依頼。建売住宅といえども、1棟ごとに異なった外観を持った住宅が大評判となり、住宅雑誌に幾度となく掲載されました。中でも八角形の外観を備えた住宅は、その外観もさることながら、室内の生活導線まで考慮された家として後々まで語り継がれました。
「サニータウン上尾」も、清家氏ら、一流の建築家に設計を依頼しその知恵をいかすことで、“注文住宅と同等の”個性的な家が立ち並ぶ街が誕生したのです。
歩道も整備され、ゆったりした広さで整然とした家並みが連なっている
歩道も整備され、ゆったりした広さで整然とした家並みが連なっている
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複合開発の原点?店舗併設マンション誕生
始まったばかりだからこそ、新たな挑戦を。
いまや、都市部における住宅の基本型になった集合住宅。マンションに永住することはあたりまえのことになり、居住空間、設備・仕様、構造は、“永住すること”を前提に急速に向上していきました。
1968年に竣工した「百合ヶ丘ガーデンマンション」を始まりとする三井不動産のマンション事業は、その後、白金、目白、札幌、三田綱町へと継続。新しい事業にはさまざまな課題があった時期ではありましたが、始まったばかりだからこそ、ひとつひとつの事業に新鮮な試みをする発展期でもありました。
そのさなかに開発されることになった「原宿パーク・マンション」。この事業は、マンション事業におけるひとつのエポック・メイキングともいえる新しい挑戦であり、その後の三井不動産のマンション事業に、影響を与えた事業といえるものかも知れません。
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パークホームズ誕生物語
都心住宅が求められた背景
『パークホームズ』シリーズは、現在、三井不動産レジデンシャルが最も数多くお客さまにお届けしているマンションブランドです。
では、その『パークホームズ』シリーズのはじまりとはいつ頃だったのでしょうか。
それは、今から30年前・1975年のことでした。
『パークホームズ』の名を持つ物件が生まれたその時代にはどんな背景があり、それによってどんなコンセプトが考えられたのかを紐解いてみましょう。
高度経済成長期と呼ばれた1955年頃からの好景気の波によって、個人の生活水準が年毎に伸び、それは集合住宅や個人の住宅、その生活へも様々な影響を与えました。高度経済成長期の前半は「三種の神器」と名づけられた電気冷蔵庫、電気洗濯機、白黒テレビが普及。後半の70年代に入ると今度は「3C」と名づけられたカラーテレビ、カー(自家用車)、クーラーが急速に世の中に広まるとともに生活様式は多様化していきました。
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左は60年前後の冷蔵庫。右は72年の車たち。どちらも現在はレトロ・アンティークなどといわれマニアの人にとっては羨望のデザインかもしれません。
1973年、第1次オイルショックが起こり、景気は冷え込みます。それまでの急速な工業化によって都市部へ通勤するサラリーマンが増加していたことから続いていた、大都市圏への人口の流入はおさまりつつあったものの、依然として都市部の住宅不足は解消されない状況にありました。また、都市近郊部へ広がりを見せた住宅需要は遠距離通勤が増えるなどの問題を新たに抱えていました。
このような時代の流れの中で1975年は、大都市の住宅難などの理由もあって戸建では二世帯住宅が世の中に産声を上げたりもしています。ちなみに、カラーテレビの普及率が90%を越えた一方で、白黒テレビも48%ほど合わせて見ている人々がいる時代でした。現在の衛星放送やデジタル地上波などまったく想像もしていなかったといえるでしょう。さて、集合住宅には何が求められていたのでしょうか。
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““量から質”に変化した、大規模面開発
“住まいの環境”という価値を創造
急速に発展する産業・経済、そして第二次ベビーブームの真っ只中にあった1970年代初頭の日本。当時、空気の汚れや人口の急増・密集により、都市の住環境は決して恵まれた状態とはいえませんでした。

その時代背景の中で、ニュータウンの先駆け的存在となった大阪の「千里ニュータウン」が1970年に完成、翌年には東京の「多摩ニュータウン」の入居が開始し、住まいの舞台は一気に大規模郊外型住宅へと移り変わりました。
広大な敷地全体の各所にゆったりと配された「公園」「遊歩道」「テニスコート」などを歴然と感じる竣工当時の空撮写真
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個性と個性が調和する、美しい街並・・・
個性派揃い!でありながらも美しい街並みを実現させた建売住宅
 1971年、「デザイナーズ設計」による建売住宅などかつてなかったこの時代。清家清氏をはじめ、当時華々しく活躍中の有名建築家10名が設計したことで話題を呼んだ、新進の分譲住宅が誕生しました。東京都杉並区の浜田山住宅です。

 住む人の数だけ家にも「個性」があります。それに対応すべく、19戸の住宅は、すべて設計・デザインが異なる個性派ぞろい。しかも当然、景観も計算された上で設計されているため、三井不動産の初挑戦「街と個性が調和する美しい街並みを実現した建売住宅」としても知られることとなりました。
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まだ、和室が2部屋3部屋あった頃・・・
こだわり対応を先取りしたユニット販売方式
 ときは、昭和元禄とはやされた高度成長期のまっただ中の1971年。この年に誕生した上目黒パークマンションは、日本で初めて「ユニット販売方式」を取り入れたマンションとして大きな話題を呼びました。

 ユニットと言われてピンと来ない方も、今でいうメニュープランだと聞くと、ご納得いただけるでしょうか 1ユニットに2Lタイプや3Lタイプなど4つの間取りのタイプが用意され、家族の構成や好みによってお客様がご自分の求めるタイプを選べるというものです。今でこそ、家族のライフスタイルに合った間取りのバリエーションを選ぶというのも容易になりつつありますが、
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